海で溺れたよ

この海!深い!溺れる!ボボボーボ・ボーボボ

幸せと優しさの隙間にある日常

私のブログを読んでくれてる友人からのリクエストで今回は「何があって幸せだと思うのか」「何をされて優しさを感じるのか」「どんなことがあって辛くて悲したかったのか」について書いて見ようと思います。

私は感情という感性がぶち壊れてるらしいのですが人並以上に敏感な心の持ち主です。人から貰う感情や価値をどんなものなのか何が理由で私に与えてくれたのか私は深読みをします。

 

 

幸せだと感じる時 誰かが私を必要とし「ありがとう」「あなたのおかげ」と言われた瞬間です、母に「生きててくれるだけでいい」と言われた瞬間、私の中では2つの感情が入り交じります。それは「うれしい」と「申し訳ない」優しさもまた然り 他人に自ら何かをしてあげその対価を貰うことで私は嬉しながら幸せを感じながら申し訳ないという要らない感情を抱いてしまいます。自己肯定力の低さ故 避けては通れないものなのかもしれません。17年間「自分は生まれてくるべき人間ではなかった」と思い続け生きてればそうもなります。優しさを与えられた時私は何故か涙が溢れて止まらなくなります、そして私の心に芽生えるのは「こんな人間に優しくしてくれてありがたい」という気持ちです。些細なことなのです、私が欲しがり皆が与えてくれることは 少しずつ少しずつ私の生きる種になっていくのです。

 

そして反対の悲しいや辛いなどのネガティブな気持ちを抱く時は決まって「誰かに突き放された」と感じた時です。私は関わる人間にどうでもいい人なんの感情も抱かない人もいません、所謂「執着心」からくる突き放された不安や悲しみ 1.2日返信が来ない いつもより冷たい いつもより笑顔が少ない何がダメだったんだろう 常日頃人に対しそう考えています。元々の性格もあるのだろうか。裏切られたり少し物事を否定されたりしたら人格まで否定され罵られた気分になり2週間ほどずるずると引きずります。そして悲しいや希死念慮を抑え自分はこんな人間なんだと自分に分からせるためにリストカットやOD飛び降りを繰り返すのだと思います。なので取っかえ引っ変えがキリがありません、誰かが1人でも離れたら私は次を見つけ その悪循環。でもハッキリと○○されたら辛いとはいえません、私にも分からないのです スっと不安になりフッと落ち着きます その繰り返しに他人からの優しさや愛情が入り込み複雑に絡み合い自己収集がつかなくなります。

 

 

でも声を大にして言いたいことは私はみんなのおかげで生きられています。私が死にたくて誰かに縋りたい時 誰かしらは電話に出てくれるし 大好きな彼女はたまに電話をすると面白い話をしてくれて元気が出るし 私が困ってたら手を差し伸べてくれる友人も こんな私を面倒見てくれる母もいます。それだけで充分なのかもしれません、対等なのが当たり前なのです、してもらったらしてもらった分だけの対価を支払わなくてはならない、過不足なく平等にそれで世界も人間関係も上手くいくのだと思います。

僕と愉快な閉鎖病棟の仲間たち

小藤さん(39)うつ病で自ら入院してきたとのこと。この方は東京の方でIT会社に勤めていたらしいがうつ病を発症し仕事を辞め地元に帰ってきたらしい、前回のブログで書いた「いつもニヤニヤしてる人」です。この方とは心理療法士も混じえ他の方も混じえながらゲームを何度かしたことがある。

 

 

そしてここからパンチの強いメンツになってくる、よっ!さすが大学病院さまさま!

 

 

えりか(13)なんとこの閉鎖病棟にはこんなにも若い子がいるとは!というのが最初の衝撃だった、この子は母親に刃物を向けたら警察を呼ばれそのままここに連れてこられたとのこと、この子は自分で自分の髪の毛を毟り抜く癖があり後頭部が少し禿げていた、でも普通だった。話せば楽しいし流行りのTikTokの曲などを歌って騒いで怒られたりした、禁止されてる物々交換(お菓子や本)などもして2人でひっそりアイスを食べたりもした、いい暇つぶし相手でもありいい友人だった。2人でホールでご飯を食べるのも当たり前だったし 後記に載せる女の子1人と私とえりかとの3人が何時ものメンバーだった。

 

なつき(20)最初の会った時は中学生かと思った(申し訳ない)トイレ待ちで初めましてだったのだが彼女は強迫性障害という所謂行き過ぎた潔癖みたいな感じで日常生活もままならず任意入院だった。お風呂も2時間かかり手を洗ってるだけで気付いたら3時間経っていたというのもざらにあったらしい、そして手を常に胸元に置きそこから下には下げられなかったし 落としたものも自分で拾えず、ご飯も部屋じゃなきゃ食べられず ジャンプや走ることもできなかった(汚いという思い込みゆえ)「トイレ行ってくる~」と言えば30分戻ってこないこともざらにあった。この子ともアニメやボカロや恋愛ソングで意気投合し ずっと歌ったり散歩がてらカラオケを外でしていたりした、歌声がとても綺麗で透き通っていて歌のお姉さんみたいな歌声をしていた。

 

まゆちゃん(24)彼女の病名や症状は詳しくは知らないが拒食症と気分障害人格障害を患ってると風の噂で聞いたことがある、ただでさえ華奢な体はもっと細く手首なんて折れてしまうのでは?というほどだった。そして可憐だった。声も落ち着いた綺麗な声をしていて顔も普通に可愛かった。だけど記憶がない所で冷蔵庫を倒していたり 椅子で窓ガラスを割ろうとしていたり 歯ぎしりをしながら「死にたい」と泣いていたり、何故かそんな光景にも慣れてしまい彼女が「死にたい」ということも慣れてしまったし、私も常に死にたいと思い死ぬことを考えてるからそれがデフォルト故に慣れてしまったのだと思う。手首に無数の痛々しい引っかき傷があった「差し支えなかったらでいいんだけどその傷は自分で?」と聞いたらふにゃあと笑い「多分ね、記憶が無いの」と返事をしてくれた、その初めての会話が何故か悲しかった。

 

 

 

そして上記のなつきとえりかとは未だに私が外来に行く時に会います。なつきとえりかとは病棟外で座りながらお話をしたり、昨日の診察後にもいつも通り話をしていた、私は汚れや傷などに無頓着で気にしない人なのだが それがなつきにも影響し「○○ちゃんのおかげで床に落ちたものも触れるようになったよ!外の椅子にも座れる!○○ちゃんは汚れや傷に無頓着だから見てて安心する、存在だけで私の病気を治してくれるみたい」と言ってくれた、嬉しかった。私の存在を初めて他人に認められたような、私は鬼じゃないんだと思えた。えりかは会った瞬間に泣いて抱きついて「会いたかった」と言ってくれた、彼女達と会うと何故だろう普通の友達といるより安心感があるし なにかに包まれてる気分になれる。私のなくなった生きる力と肯定力をゆっくりゆっくり彼女達は繋げてくれる。似たもの同士だからなのかもしれない。

 

 

この子達と関わり私はもっと深く心の問題について考えてみたがやっぱり答えなんて見つからなかった、精神障害者だからってちょっと怒っただけで「衝動性だ」って言われるし、ちょっと泣いただけで「不安定だ」って言われる「何でもかんでも病気扱いするな!」とは思うがそれほど心に敏感なんだと思った。心の病は悪いことじゃない ただちょっとした変化の心の反応なんだと思う。私の見解ではそうなる。

 

そんな愉快な仲間たちと過した閉鎖病棟、確かに外で友達とenjoy!もいいが閉鎖病棟での夏もなんだかんだ楽しかった、暑いね~って拒食症の女性と話しながら「お姉さん細いから暑くないでしょ~」そんな会話さえ懐かしいと思える。悪くなかった、だけど良かったとも思えない複雑な気持ちがある。精神科の閉鎖病棟は地獄ではないが天国でもない、病状が落ち着くわけでもなければ救われる場所ではない、だけど気付けることが沢山ある、得るものも沢山ある。私はそれをひとつひとつ壊さず大事にしたいこれからも。

 

※記憶を辿りながらなので間違いもあるかもしれません🤤

 

閉鎖病棟とADHDと

窓からはセミの鳴き声が聞こえる、スマホはない、社会と繋がるようなツールは全て置かれてない。不安だらけだった、私にとってスマホとは他者との繋がりを表すものだった そんなものがない中でまともでいられるのかと不安だったが実際「スマホがある方が異常になってしまう」という現実を突きつけられた。

 

出入口、洗面所、大浴場、ナースステーションには全て鍵がかけられ ナースステーションには強化ガラスが張り巡らされてる、困った時はナースコール(看護師が来るのに30分くらいかかる)またはナースステーションの小窓を叩き直接お願いをしにいく、1人でニヤニヤしながら歩く人 ナースステーションの窓を叩きながら「ここから出せ!」と怒鳴り保護室に連れていかれる人 ドアの隙間からガン見してくる拒食症の女性、1人で爆笑しながら歩く人、みんな様々に過ごしていた。

 

不思議なことに1週間ほどでスマホのない生活に慣れてしまった、むしろない方が精神は安定してた。スマホを持つことで「承認欲求」「自己顕示欲」「SNSという毒に侵されていく。だけど慣れたと思うのも閉鎖病棟の中にいる時だけ、入院して三日目で友達が2人も出来た、その子達と大声で歌って怒られたり、一緒にゲームして笑いあったり、今年の夏で1番充実した生活が送れた。ただしかし母が面会に来て外に出る時自然と涙が溢れてきた「家に帰りたい」誰でもそう嘆きたくなるだろう、5ヶ月も入院してまともに家にも帰宅してないんだから。そして入院してから4週間目 ついにナースステーションの前で泣き崩れて帰宅を強請るようになった、緊急で母が面会に来て 無事一時帰宅。そして家に帰って思ったのは「やっぱり家に帰りたい」ということで金曜日に退院させて貰えました、なので入院中何があったのか詳しくお話は出来ませんというか全て忘却の彼方なので話すことがない。ダメですね、記憶力が本当に低下してる。最近は失礼だが友達の名前すらも間違えてしまうようになってしまった。

 

そして入院中にIQ検査 画面に丸が出たらボタンを押す検査 心理検査 ADHDチェック検査 全ての検査で4時間ほどかかりました、その結果「ADHDです」と言われました。こんなもんです、私の人生なんてどうせ語呂合わせだもん。

ADHDも躁鬱も境界性パーソナリティ障害PTSDも治らない、救われない、嗚呼。なぜ苦しめた奴らではなく苦しめられた私がこんな目に合わなきゃいけないんだろう、人生をかけて償ってほしい。生きにくい

 

もう死んじゃおうかな。きっとその方が楽だよ。って言うだけできっと死なないのでほったらかしてください。

 

 

何時もの診察の様子

「やっぱり精神科って入り口が頑丈だったりするの?」とよく聞かれます

 

そうでもねえ!!!!!!私は天下の大学病院様様の精神科にかかっているのですが、待合室が中にありそこが他の科と違うところかなと思います。精神科だからって精神を病んでる人だけが来るわけではありません、更年期、ADHD、アル中、さまざまな人がいます。その中でも圧倒的に多いのは気分障害の方だと思われます(もしかしたら統合失調症といい勝負かも)知名度と発症率は比例するように思います。精神科だから「興奮してる人」「泣いてる人」がそこらじゅうにいるわけではありません。私も驚いたのは一見普通の人が多いことに私も驚きました、ですがはたから見れば私もその1人なのです。

 

そして私が受けている治療は薬物療法です、週に2回の受診 診察室に入ってすぐの先生の言葉は「この○日間どうでしたか?」抑鬱で受診することが多いのですが自分にも他人にも興味や関心がなくなっている時期なので「いや別にどうもしてません、、」と思いますがなんとか診察時までにあったこと、どんな細かいことでも報告して そのことに対してどう思ったのかどう感じたのかについて答えます「分析が得意で言葉でまとめるのが得意なだけ沢山の言葉が出てきますね、でもそこにあなたの感情が入ってるとは思えない のでそこが問題ですね」と言われます。その通りです、私は言葉にまとめ相手が理解できるように伝えるのは得意なのに何故かそこに感情を入れることが苦手です、その裏には「感情を持ち込んだらいけない」「人前で泣くことは悪いことだ」と思い込んでいるからです。そう思い込むしかなかった養育環境にありました。でも、それでもたまに張り詰めた糸が切れるように泣き散らかすこともあります、感情は言葉にして吐き出さないと勝手に出口を見つけて出てきてしまう。そして薬について、これから先の治療ではどういうところを踏まえて気をつけてしていくかについて話し合って 薬を出されて終わりです。

 

 

そして先日の診察で新しいことがありました、ADHDの可能性がある」です。ふざけんじゃねえよ!!と思わず言いかけてしまいました。そう言われた理由ですが、私には昔から衝動性がありそれに加えて注意力の散漫、集中力の持続が極端に短い、小さいミスの連続などがありました。それで小学生の頃同じ大学病院の思春期科にかかっていたこと、個人病院でIQの検査をしたこと、全て洗いざらい伝えました。それらの症状がADHDなのか、それとも躁鬱の症状なのかを検査するとおっしゃられてました。ADHDなら薬を使って抑えなきゃいけないし 症状なら心理療法も交えて診ていかなくてはならないのです。ADHDとは思いたくないし、症状だとも思いたくないけれど「そういう作り」というのはもっと嫌だ。でも私は思うんです、先生には「自分の感情を受け入れてもらった、自分を受け入れてもらったという体験を重ねて治していきましょう」と言われるけど、17年間感じ続けてきた「自分は生まれるべき人間ではなかった」「自分は生きてちゃいけない」という気持ちと孤独を覆すことは難しすぎる。たかだか2.3回の体験でどうにかなるものでもない。と思うんです。

 

またこんな支離滅裂でぐちゃぐちゃな文章を綴ってしまった。「死んだ方がいいのかな」と17年間思い続けてきて 今も思ってる、きっともう治らない。だって中学の時はいつか治ると思ったし 高校に入ったときも環境が変われば救われるかもしれないって思ってた、それなのに救われなかった、嗚呼。

 

 

次のブログの更新はいつになるか分からないけど閉鎖病棟に入院したら閉鎖病棟についても書いてみようかなと思います。

 

 

許されない。

許されるんですか、私を痛めつけ不安定にさせ苦しめ罵り裏切った元彼や親戚や両親は。許されてはいけないはずではないのだろうか。貴方達に付けられた傷は刻印となり二度と消えることのない、足首に入れられた固いプレートにボルト、背骨に入れられた人工骨にボルト 創外固定。7万円したコルセット、3万円のアンクルファイター、全て実費だ。背中に出来た縦30cmの手術跡、プレートが入ってるところを指で叩けば痛みもない 衝撃が来るだけで痛くもなんともない。後遺症として関節痛、足首の動きが弱くなる ものがあげられる、足首の左右の動きは勿論前後の動きも悪くなるというかほぼほぼ出来ない、だから歩き方かは少し可笑しくなるし 走ることは不可能 体育なんて無論参加できるわけがない。コルセットは3ヶ月は取れないし、アンクルファイターは付けてから半年は取れない。帰宅する時私は松葉杖を2本脇に挟み使っているであろう。私を追い詰めた奴らは許されるんですか?ううん、許されないんじゃなく私が許せないだけだ。

脂肪って黄色いんだなあ

足と手を離して飛ぶ、あれやこれや考える時間もなく落下。あまりの痛みに呻き声が自然と出てしまう、意識も朦朧とする 近くで女性の悲鳴が聞こえる、足音が近づく。しばらくしてサイレンが聞こえてくる

 

 

「大丈夫ですか?声聞こえますか?どこ打ちました?」

 

 

いやそんなに質問攻めされても!!!!なんて思うのは今だからでしょうね。

頭に頭部固定具を付けられ、123という掛け声と共に体が浮き担架に寝かせられる。私はひたすら痛みに耐えながらなんとか意識を保とうとした。

 

「私の声が聞こえてたら手を握ってください」「名前と生年月日言えますか?」「指に酸素測るやつを付けさせてもらいますね?」「かかりつけの病院とかありましたら教えてください」

 

どこかぼんやり「ドラマだ!!」と思っていたことを覚えている。

 

着いてからのことは今もよく覚えていません、うっすらうっすらな意識で覚えていることはCTやレントゲン色々な検査を受けたことくらい。CTは未だに慣れません、吸い込まれてしまいそうで怖いなって思いながら受ける。

 

全ての検査が終わったらベッドに移り救命救急病棟の個室Cにぶち込まれる。お母さんが椅子に座って私の手を撫でてた。

 

足首の軟骨が潰れ、関節が外れ、複雑に出来ている骨が粉砕骨折

腰は第二腰椎破裂骨折、簡単に説明をすると 背中を支える背骨の骨が1個潰れ他の背骨にヒビが入った。

 

足は酷いもんだった、変な方向を向いて紫色になり腫れ上がってた。

 

「今すぐ手術しないと脊髄にも怪我の影響が行き 脊髄損傷を起こし二度と歩けなくなる可能性があります」と腰の先生が説明をしていて、私は他人事のように聞いていた。(痛すぎて集中して聞けれなかった)

 

その日の夜中に手術室が空き 急遽足と腰の手術を受けた。背骨に5つのボルト、足首には骨から直接固定する青とシルバーの固定具を付けられ 無事手術は終わりました。4.2

 

 

そして4.12 2回目の足の手術を受けました。今回の手術は直接入れられている固定具を抜き、足りない部分の骨を人工骨で補い 踵にプレート、左右にボルト、無事終わりました。

 

やけに綺麗な手術室は怖かった。

 

「髪が長いから結んでから帽子被りましょうか」

結ぶゴムの色は選ばせてくれた、緑とピンクを選んだ。

 

麻酔って眠りにつくまでピリピリするんですよ。針を刺され 点滴で麻酔をかけるんですけど 針を入れられてるところ 針を入れられてる腕がピリピリしてきて、目線を上に戻すと立ちくらみの様に視界が歪んで眠りにつきます。

 

「手術終わりましたよ!」

声をかけられ目を開けると私の周りを何人もの医師や看護師が囲っていました。

 

 

そんなことで私の体には今、背中にボルトが5つ、足首に鉄のプレートとボルトが入っています。

 

人造人間万歳

 

 

 

 

 

 

 

 

8階から見る景色は私を更に失望させた。

急に色々こみ上げてきて泣きながら看護師さん呼んでソラナックス出して貰ってめちゃくちゃ心配されてるけどそれすらも申し訳なくて泣きながら笑って「大丈夫です!大丈夫です!w」って言い続ける化け物になってる。というのが私の今の現在のナウの状態です。どうでしょう、とても醜いですね。分かってるよ!!

 

 

 

 

 

私の叔父さん2人そして父に引き取られた私の弟は「筋ジストロフィー」という遺伝性の障害を持っています。そして叔父さん2人は「持っていた」という過去形になるのでしょうか、障害に殺されました。

筋ジストロフィーには2つのタイプがあります、軽症と重症です。叔父さんと弟は前者でした。軽症の平均寿命が40歳で重症の平均寿命が20歳です。

 

弟は私と(多分)4つほど歳が離れており、小学校5年生ではもう既に足を引きずって歩き 中学生の今は既に車椅子生活でしょう。そして私の叔父さんは41歳と42歳で亡くなりました。

叔父さんはどちらも母の兄で 長男と次男でした。長男の叔父さんが亡くなったのが41歳、そして私は小学3年生です。やっと人が死ぬということを理解するような歳でした、そして長男の叔父さんの直接的な死因は床に落ちたホースを拾おうとした時に痰が詰まり窒息した(はず)(昔過ぎて覚えてないし当時もよく分かっていなかった)ことでした。

今までそれなりには元気で私を可愛がってくれていた人が死ぬ その事実を私はどう受け入れたらいいのかが分かりませんでした。そして突然人が死ぬ又はいなくなるという喪失感を覚えました。

クリスマス、お正月、何も無い日、叔父さんの家に母と2人でお邪魔して たまに叔父さんの彼女も混じえてご飯を食べたり テレビを見たり何気なく過ごしていました。

部屋を開けて入れば叔父さんの部屋の香りが鼻に広がる、手が届かないから電気の紐に糸を垂らして居たこと、年代を感じさせるパソコンの隣に並べれたB'zのCD、私の家系で唯一パソコンを持っていて使えるのでよくDVDなどをやいてもらったこと、全部全部しっかり覚えています。忘れられるわけがない、ピザを買って食べたこと 少し私は緊張してたこと、私が美味しそうに食べる姿をにこやかに見ていたこと、幼いながらにちゃんと見ていました。

お葬式では泣いていました、もう冷たくなった顔もちゃんと見ました、頬を手で撫でた。

火葬され骨になった姿を見て泣き崩れたおばあちゃんを私は見てまた泣きそうになりました。

 

2人目、次男の叔父さんのお話もさせてください。

次男の方はおばあちゃんと暮らして居ました。そして私は母が離婚してから1年ほどおばあちゃんの家で過ごして 小学校3年生くらいまで学校帰りから夜の9時半から10時前まで母の仕事帰りを待ち迎えに来てもらうという風に過ごしました。おばあちゃんの家は古くて 私の小学校の目の前で 毎日通うのが楽でした。

ヘルパーさんの緑の服は今もしっかり覚えています、私が玩具を自慢したく勝手に友達を呼んで怒られたことも、飴を貰いたくても頂戴というのが恥ずかしくて弟に言わせて「お前が食べたいんだろ笑」と言われたことも覚えています。

体のどこかを壊したのがきっかけで医学部附属病院に入院することになり、そして寿命が近付いていたこともあり呼吸器官などが衰えていくため自宅で過ごすことが困難になったために医学部附属病院に入院して、そして暫くしてから隣の県の専門的な病院へ転院しました。

医学部附属病院で車椅子に乗り医者の説明を叔父さんは受けていました。悲しんでる表情を浮かべている様子はなかったと思います。それが私は怖かったです。

隣の県への転院が決まってからなかなかお見舞いに行けず、1ヶ月に1回行ってたかな?くらいでした。2年ほどそこにいたんでしょうかね、4月の桜は2年の間で1度でも見れませんでした。せめてのつもりで桜の写真のコピーを叔父さんの恩師が壁に貼ってくれてました。

そしてその病院で小さなイベントをするというのを聞き私達は駆けつけました、いとこがあげたスーパーボール嬉しそうに受け取ってました。私達の前では平気そうな顔をしていましたが、知り合いには「怖い」「辛い」と漏らしていたみたいで、人間らしさを感じれて私はめちゃくちゃ安心をしたし 同時に苦しくなりました。亡くなる前日私は何故か凄く叔父さんに会いたくて何度も母や親戚に「叔父さんのお見舞いに行きたい」と年下のいとこと駄々をこねました。それでも連れて行って貰えず、その翌日急変し亡くなりました。悔しいです、とても悔しい。ずっと駄々をこねて暴れ回ってやればよかった、朝の6時に急変したと連絡が入り母に叩き起され 私は動揺しながら立ち上がり服を着替えボサボサのまま向かいました。間に合いませんでした、1人で逝ってしまいました。

 

 

2人は「いつ呼吸が止まるんだろう」「いつ死ぬんだろう」きっと常に心にそんな不安を抱きながら必死に毎日を生きていたんだと思います。2人の気持ちなんぞ私には理解は出来ないし 死んだ今もう分かりません。ただの憶測です、同情をする気もありませんし 私には同情が出来ません。

2人が必死に生きて生きた人生は誰にも否定させないし、生きていた事実は消させません、絶対に忘れません。

 

だからこそ私は余計に親戚が憎いのです、三回忌などを雑に扱い ろくにお墓に花も捧げない親戚が憎くて辛いです。絶対に許してはいけません。

でももっと許してはいけない人がいるのです、それは私自身です。

 

2人の死を目の当たりにし、2人がどれだけ必死に生きてたかも見てて、それでいても「死にたい」と思い言い行動にする私を私は許せません。でも、目の当たりにしても私は死にたいと思ったし これからも思い続けるでしょう。こんな罪深く不謹慎な私を許してはいけません、みんなも、わたしも。

 

 

ってな感じで語ってたら感情がえらい混み上がってきて爆発して泣きながら手首を切りかけましたわ。相も変わらずですわたしはいつまでも。

 

 

さあ今日も生きたぞ。

 

 

(医療関係者ではないことと、母からの言葉とネットで調べた情報しかないので多少間違えている部分などがあるかもしれません。私のブログの情報だけを鵜呑みにしないでね。)

 

 

 

 

おばあちゃんもお母さんもそんな寂しそうな顔しないでよ。