海で溺れたよ

この海!深い!溺れる!ボボボーボ・ボーボボ

死んでも誰かの心の中に残るというのはとても皮肉だ

先日リストカットをしました、とはいえ深く切れるようなカミソリなどは母に全て没収されているのでカッターで腕を切り刻んでいました。でも、ちっともスッキリしなかったのです。いつも手首を切るとなんとも言い難い快楽を私は手に入れるのです。悩んでいたことも苦しんでいたことも一時的に忘れてスッキリすることが出来るのです。答えはすぐわかりました、深く切れないからなんです。浅い傷を沢山切ったってちっともスッキリしない。深くないと、脂肪が見えないと、薄い膜の向こうに血管と思えるものがないと、私はスッキリできないんです。なのでここで言葉を紡ぎます。

大好きな人からの皮肉や嫌味や暴言というのは心に深い傷を負わせてしまいます、そして相手に悪気がないなら尚更。興味のない、さして好きではない人からの皮肉や嫌味や暴言に対しては深い傷を、というよりかは怒りに近いものが湧いてきます。前回の精神科でおばあちゃんが付き添いしてくれてました、診察室には入ってくることはありませんが。

私は誰よりもおばあちゃんが大好きでした、誕生日会を開いたり 年越しは家に招いたり 初めて働いた私のお金でご飯に連れて行ったり。私の人生においておばあちゃんとは大切な人でした。そんなおばあちゃんの悪気のない暴言が私の心に大きな傷を負わせてしまいました。「なんで精神病になるかなあ異常だから?」「お母さんもあんたが精神病なの恥ずかしいと思ってるんじゃない?」「甘えだよー」不意に思ってしまいました。「お前に何が分かるんだよ」と、負け犬の遠吠えかもしれません、何がわかるんだよと突き放すことでこれ以上傷つくことを避けたのかもしれません。でも、何よりも悲しかった 悲しくて悔しくて辛くて言葉も出ませんでした。でも、そんなことをはっきりおばあちゃんに言えるほど強いメンタルを持ってるわけでもないので 家に帰ったあと部屋に篭もりずっと泣いていました。分からなくていい、おばあちゃんも 私の病気のことなんてわからなくていい でも受け入れてくれてると思ってた、思いたかった。その考え自体が浅はかで自己中心的だったのかもしれません、全ての非は私にあるのかもしれません、とどんどん自分を追い込んでしまいました。前回のブログで書いた「抑うつ」にはおばあちゃんからの言葉が原因だったのではないのかと思います。

異常だ、おかしい、甘えだ、なんて言葉は耳にタコができそうなくらい色々な方々に言われることがありますが大好きだった人に言われるのではまた訳が違います。そして何より母が私を恥ずかしいと思ってるという言葉が私にトドメを刺しました、母は基本的に無頓着で無関心で人の目線顔色などを伺うタイプじゃなく 自由気ままな方です そして母の友人も同じようなタイプの人間が多く 母が恥ずかしいとは思ってないというのは私自身がよくわかっているはずなのに、トドメの一言でした。それは私が母のことが大好きだからなのだと思います。何かする時も、何かしようとする時もいつも私は母を優先しています。母の自慢の娘でありたいと昔からずっと思っています。そう思う心をおばあちゃんに踏みにじられとても苦しかった。まるで「お前がどう足掻いても母の自慢の娘になんてなれないんだよ」と言われてるような感覚でした。もう私はおばあちゃんを愛することはできません、ごめんね、私が精神病にならなかったら普通の孫と祖母でいれたかもしれないね。ごめんなさい。

 

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そんなことでただでさえズタボロの手首がまたさらに汚くなりましたよ、と。愛とはなんなんでしょうか、裏切られても暴言を吐かれても貫くことが愛なのでしょうか。例えプライドを相手にズタズタにされても貫くことが愛なのであれば私は一生触れることはないと思います。