海で溺れたよ

この海!深い!溺れる!ボボボーボ・ボーボボ

8階から見る景色は私を更に失望させた。

急に色々こみ上げてきて泣きながら看護師さん呼んでソラナックス出して貰ってめちゃくちゃ心配されてるけどそれすらも申し訳なくて泣きながら笑って「大丈夫です!大丈夫です!w」って言い続ける化け物になってる。というのが私の今の現在のナウの状態です。どうでしょう、とても醜いですね。分かってるよ!!

 

 

 

 

 

私の叔父さん2人そして父に引き取られた私の弟は「筋ジストロフィー」という遺伝性の障害を持っています。そして叔父さん2人は「持っていた」という過去形になるのでしょうか、障害に殺されました。

筋ジストロフィーには2つのタイプがあります、軽症と重症です。叔父さんと弟は前者でした。軽症の平均寿命が40歳で重症の平均寿命が20歳です。

 

弟は私と(多分)4つほど歳が離れており、小学校5年生ではもう既に足を引きずって歩き 中学生の今は既に車椅子生活でしょう。そして私の叔父さんは41歳と42歳で亡くなりました。

叔父さんはどちらも母の兄で 長男と次男でした。長男の叔父さんが亡くなったのが41歳、そして私は小学3年生です。やっと人が死ぬということを理解するような歳でした、そして長男の叔父さんの直接的な死因は床に落ちたホースを拾おうとした時に痰が詰まり窒息した(はず)(昔過ぎて覚えてないし当時もよく分かっていなかった)ことでした。

今までそれなりには元気で私を可愛がってくれていた人が死ぬ その事実を私はどう受け入れたらいいのかが分かりませんでした。そして突然人が死ぬ又はいなくなるという喪失感を覚えました。

クリスマス、お正月、何も無い日、叔父さんの家に母と2人でお邪魔して たまに叔父さんの彼女も混じえてご飯を食べたり テレビを見たり何気なく過ごしていました。

部屋を開けて入れば叔父さんの部屋の香りが鼻に広がる、手が届かないから電気の紐に糸を垂らして居たこと、年代を感じさせるパソコンの隣に並べれたB'zのCD、私の家系で唯一パソコンを持っていて使えるのでよくDVDなどをやいてもらったこと、全部全部しっかり覚えています。忘れられるわけがない、ピザを買って食べたこと 少し私は緊張してたこと、私が美味しそうに食べる姿をにこやかに見ていたこと、幼いながらにちゃんと見ていました。

お葬式では泣いていました、もう冷たくなった顔もちゃんと見ました、頬を手で撫でた。

火葬され骨になった姿を見て泣き崩れたおばあちゃんを私は見てまた泣きそうになりました。

 

2人目、次男の叔父さんのお話もさせてください。

次男の方はおばあちゃんと暮らして居ました。そして私は母が離婚してから1年ほどおばあちゃんの家で過ごして 小学校3年生くらいまで学校帰りから夜の9時半から10時前まで母の仕事帰りを待ち迎えに来てもらうという風に過ごしました。おばあちゃんの家は古くて 私の小学校の目の前で 毎日通うのが楽でした。

ヘルパーさんの緑の服は今もしっかり覚えています、私が玩具を自慢したく勝手に友達を呼んで怒られたことも、飴を貰いたくても頂戴というのが恥ずかしくて弟に言わせて「お前が食べたいんだろ笑」と言われたことも覚えています。

体のどこかを壊したのがきっかけで医学部附属病院に入院することになり、そして寿命が近付いていたこともあり呼吸器官などが衰えていくため自宅で過ごすことが困難になったために医学部附属病院に入院して、そして暫くしてから隣の県の専門的な病院へ転院しました。

医学部附属病院で車椅子に乗り医者の説明を叔父さんは受けていました。悲しんでる表情を浮かべている様子はなかったと思います。それが私は怖かったです。

隣の県への転院が決まってからなかなかお見舞いに行けず、1ヶ月に1回行ってたかな?くらいでした。2年ほどそこにいたんでしょうかね、4月の桜は2年の間で1度でも見れませんでした。せめてのつもりで桜の写真のコピーを叔父さんの恩師が壁に貼ってくれてました。

そしてその病院で小さなイベントをするというのを聞き私達は駆けつけました、いとこがあげたスーパーボール嬉しそうに受け取ってました。私達の前では平気そうな顔をしていましたが、知り合いには「怖い」「辛い」と漏らしていたみたいで、人間らしさを感じれて私はめちゃくちゃ安心をしたし 同時に苦しくなりました。亡くなる前日私は何故か凄く叔父さんに会いたくて何度も母や親戚に「叔父さんのお見舞いに行きたい」と年下のいとこと駄々をこねました。それでも連れて行って貰えず、その翌日急変し亡くなりました。悔しいです、とても悔しい。ずっと駄々をこねて暴れ回ってやればよかった、朝の6時に急変したと連絡が入り母に叩き起され 私は動揺しながら立ち上がり服を着替えボサボサのまま向かいました。間に合いませんでした、1人で逝ってしまいました。

 

 

2人は「いつ呼吸が止まるんだろう」「いつ死ぬんだろう」きっと常に心にそんな不安を抱きながら必死に毎日を生きていたんだと思います。2人の気持ちなんぞ私には理解は出来ないし 死んだ今もう分かりません。ただの憶測です、同情をする気もありませんし 私には同情が出来ません。

2人が必死に生きて生きた人生は誰にも否定させないし、生きていた事実は消させません、絶対に忘れません。

 

だからこそ私は余計に親戚が憎いのです、三回忌などを雑に扱い ろくにお墓に花も捧げない親戚が憎くて辛いです。絶対に許してはいけません。

でももっと許してはいけない人がいるのです、それは私自身です。

 

2人の死を目の当たりにし、2人がどれだけ必死に生きてたかも見てて、それでいても「死にたい」と思い言い行動にする私を私は許せません。でも、目の当たりにしても私は死にたいと思ったし これからも思い続けるでしょう。こんな罪深く不謹慎な私を許してはいけません、みんなも、わたしも。

 

 

ってな感じで語ってたら感情がえらい混み上がってきて爆発して泣きながら手首を切りかけましたわ。相も変わらずですわたしはいつまでも。

 

 

さあ今日も生きたぞ。

 

 

(医療関係者ではないことと、母からの言葉とネットで調べた情報しかないので多少間違えている部分などがあるかもしれません。私のブログの情報だけを鵜呑みにしないでね。)

 

 

 

 

おばあちゃんもお母さんもそんな寂しそうな顔しないでよ。