海で溺れたよ

この海!深い!溺れる!ボボボーボ・ボーボボ

許されない。

許されるんですか、私を痛めつけ不安定にさせ苦しめ罵り裏切った元彼や親戚や両親は。許されてはいけないはずではないのだろうか。貴方達に付けられた傷は刻印となり二度と消えることのない、足首に入れられた固いプレートにボルト、背骨に入れられた人工骨にボルト 創外固定。7万円したコルセット、3万円のアンクルファイター、全て実費だ。背中に出来た縦30cmの手術跡、プレートが入ってるところを指で叩けば痛みもない 衝撃が来るだけで痛くもなんともない。後遺症として関節痛、足首の動きが弱くなる ものがあげられる、足首の左右の動きは勿論前後の動きも悪くなるというかほぼほぼ出来ない、だから歩き方かは少し可笑しくなるし 走ることは不可能 体育なんて無論参加できるわけがない。コルセットは3ヶ月は取れないし、アンクルファイターは付けてから半年は取れない。帰宅する時私は松葉杖を2本脇に挟み使っているであろう。私を追い詰めた奴らは許されるんですか?ううん、許されないんじゃなく私が許せないだけだ。

脂肪って黄色いんだなあ

足と手を離して飛ぶ、あれやこれや考える時間もなく落下。あまりの痛みに呻き声が自然と出てしまう、意識も朦朧とする 近くで女性の悲鳴が聞こえる、足音が近づく。しばらくしてサイレンが聞こえてくる

 

 

「大丈夫ですか?声聞こえますか?どこ打ちました?」

 

 

いやそんなに質問攻めされても!!!!なんて思うのは今だからでしょうね。

頭に頭部固定具を付けられ、123という掛け声と共に体が浮き担架に寝かせられる。私はひたすら痛みに耐えながらなんとか意識を保とうとした。

 

「私の声が聞こえてたら手を握ってください」「名前と生年月日言えますか?」「指に酸素測るやつを付けさせてもらいますね?」「かかりつけの病院とかありましたら教えてください」

 

どこかぼんやり「ドラマだ!!」と思っていたことを覚えている。

 

着いてからのことは今もよく覚えていません、うっすらうっすらな意識で覚えていることはCTやレントゲン色々な検査を受けたことくらい。CTは未だに慣れません、吸い込まれてしまいそうで怖いなって思いながら受ける。

 

全ての検査が終わったらベッドに移り救命救急病棟の個室Cにぶち込まれる。お母さんが椅子に座って私の手を撫でてた。

 

足首の軟骨が潰れ、関節が外れ、複雑に出来ている骨が粉砕骨折

腰は第二腰椎破裂骨折、簡単に説明をすると 背中を支える背骨の骨が1個潰れ他の背骨にヒビが入った。

 

足は酷いもんだった、変な方向を向いて紫色になり腫れ上がってた。

 

「今すぐ手術しないと脊髄にも怪我の影響が行き 脊髄損傷を起こし二度と歩けなくなる可能性があります」と腰の先生が説明をしていて、私は他人事のように聞いていた。(痛すぎて集中して聞けれなかった)

 

その日の夜中に手術室が空き 急遽足と腰の手術を受けた。背骨に5つのボルト、足首には骨から直接固定する青とシルバーの固定具を付けられ 無事手術は終わりました。4.2

 

 

そして4.12 2回目の足の手術を受けました。今回の手術は直接入れられている固定具を抜き、足りない部分の骨を人工骨で補い 踵にプレート、左右にボルト、無事終わりました。

 

やけに綺麗な手術室は怖かった。

 

「髪が長いから結んでから帽子被りましょうか」

結ぶゴムの色は選ばせてくれた、緑とピンクを選んだ。

 

麻酔って眠りにつくまでピリピリするんですよ。針を刺され 点滴で麻酔をかけるんですけど 針を入れられてるところ 針を入れられてる腕がピリピリしてきて、目線を上に戻すと立ちくらみの様に視界が歪んで眠りにつきます。

 

「手術終わりましたよ!」

声をかけられ目を開けると私の周りを何人もの医師や看護師が囲っていました。

 

 

そんなことで私の体には今、背中にボルトが5つ、足首に鉄のプレートとボルトが入っています。

 

人造人間万歳

 

 

 

 

 

 

 

 

8階から見る景色は私を更に失望させた。

急に色々こみ上げてきて泣きながら看護師さん呼んでソラナックス出して貰ってめちゃくちゃ心配されてるけどそれすらも申し訳なくて泣きながら笑って「大丈夫です!大丈夫です!w」って言い続ける化け物になってる。というのが私の今の現在のナウの状態です。どうでしょう、とても醜いですね。分かってるよ!!

 

 

 

 

 

私の叔父さん2人そして父に引き取られた私の弟は「筋ジストロフィー」という遺伝性の障害を持っています。そして叔父さん2人は「持っていた」という過去形になるのでしょうか、障害に殺されました。

筋ジストロフィーには2つのタイプがあります、軽症と重症です。叔父さんと弟は前者でした。軽症の平均寿命が40歳で重症の平均寿命が20歳です。

 

弟は私と(多分)4つほど歳が離れており、小学校5年生ではもう既に足を引きずって歩き 中学生の今は既に車椅子生活でしょう。そして私の叔父さんは41歳と42歳で亡くなりました。

叔父さんはどちらも母の兄で 長男と次男でした。長男の叔父さんが亡くなったのが41歳、そして私は小学3年生です。やっと人が死ぬということを理解するような歳でした、そして長男の叔父さんの直接的な死因は床に落ちたホースを拾おうとした時に痰が詰まり窒息した(はず)(昔過ぎて覚えてないし当時もよく分かっていなかった)ことでした。

今までそれなりには元気で私を可愛がってくれていた人が死ぬ その事実を私はどう受け入れたらいいのかが分かりませんでした。そして突然人が死ぬ又はいなくなるという喪失感を覚えました。

クリスマス、お正月、何も無い日、叔父さんの家に母と2人でお邪魔して たまに叔父さんの彼女も混じえてご飯を食べたり テレビを見たり何気なく過ごしていました。

部屋を開けて入れば叔父さんの部屋の香りが鼻に広がる、手が届かないから電気の紐に糸を垂らして居たこと、年代を感じさせるパソコンの隣に並べれたB'zのCD、私の家系で唯一パソコンを持っていて使えるのでよくDVDなどをやいてもらったこと、全部全部しっかり覚えています。忘れられるわけがない、ピザを買って食べたこと 少し私は緊張してたこと、私が美味しそうに食べる姿をにこやかに見ていたこと、幼いながらにちゃんと見ていました。

お葬式では泣いていました、もう冷たくなった顔もちゃんと見ました、頬を手で撫でた。

火葬され骨になった姿を見て泣き崩れたおばあちゃんを私は見てまた泣きそうになりました。

 

2人目、次男の叔父さんのお話もさせてください。

次男の方はおばあちゃんと暮らして居ました。そして私は母が離婚してから1年ほどおばあちゃんの家で過ごして 小学校3年生くらいまで学校帰りから夜の9時半から10時前まで母の仕事帰りを待ち迎えに来てもらうという風に過ごしました。おばあちゃんの家は古くて 私の小学校の目の前で 毎日通うのが楽でした。

ヘルパーさんの緑の服は今もしっかり覚えています、私が玩具を自慢したく勝手に友達を呼んで怒られたことも、飴を貰いたくても頂戴というのが恥ずかしくて弟に言わせて「お前が食べたいんだろ笑」と言われたことも覚えています。

体のどこかを壊したのがきっかけで医学部附属病院に入院することになり、そして寿命が近付いていたこともあり呼吸器官などが衰えていくため自宅で過ごすことが困難になったために医学部附属病院に入院して、そして暫くしてから隣の県の専門的な病院へ転院しました。

医学部附属病院で車椅子に乗り医者の説明を叔父さんは受けていました。悲しんでる表情を浮かべている様子はなかったと思います。それが私は怖かったです。

隣の県への転院が決まってからなかなかお見舞いに行けず、1ヶ月に1回行ってたかな?くらいでした。2年ほどそこにいたんでしょうかね、4月の桜は2年の間で1度でも見れませんでした。せめてのつもりで桜の写真のコピーを叔父さんの恩師が壁に貼ってくれてました。

そしてその病院で小さなイベントをするというのを聞き私達は駆けつけました、いとこがあげたスーパーボール嬉しそうに受け取ってました。私達の前では平気そうな顔をしていましたが、知り合いには「怖い」「辛い」と漏らしていたみたいで、人間らしさを感じれて私はめちゃくちゃ安心をしたし 同時に苦しくなりました。亡くなる前日私は何故か凄く叔父さんに会いたくて何度も母や親戚に「叔父さんのお見舞いに行きたい」と年下のいとこと駄々をこねました。それでも連れて行って貰えず、その翌日急変し亡くなりました。悔しいです、とても悔しい。ずっと駄々をこねて暴れ回ってやればよかった、朝の6時に急変したと連絡が入り母に叩き起され 私は動揺しながら立ち上がり服を着替えボサボサのまま向かいました。間に合いませんでした、1人で逝ってしまいました。

 

 

2人は「いつ呼吸が止まるんだろう」「いつ死ぬんだろう」きっと常に心にそんな不安を抱きながら必死に毎日を生きていたんだと思います。2人の気持ちなんぞ私には理解は出来ないし 死んだ今もう分かりません。ただの憶測です、同情をする気もありませんし 私には同情が出来ません。

2人が必死に生きて生きた人生は誰にも否定させないし、生きていた事実は消させません、絶対に忘れません。

 

だからこそ私は余計に親戚が憎いのです、三回忌などを雑に扱い ろくにお墓に花も捧げない親戚が憎くて辛いです。絶対に許してはいけません。

でももっと許してはいけない人がいるのです、それは私自身です。

 

2人の死を目の当たりにし、2人がどれだけ必死に生きてたかも見てて、それでいても「死にたい」と思い言い行動にする私を私は許せません。でも、目の当たりにしても私は死にたいと思ったし これからも思い続けるでしょう。こんな罪深く不謹慎な私を許してはいけません、みんなも、わたしも。

 

 

ってな感じで語ってたら感情がえらい混み上がってきて爆発して泣きながら手首を切りかけましたわ。相も変わらずですわたしはいつまでも。

 

 

さあ今日も生きたぞ。

 

 

(医療関係者ではないことと、母からの言葉とネットで調べた情報しかないので多少間違えている部分などがあるかもしれません。私のブログの情報だけを鵜呑みにしないでね。)

 

 

 

 

おばあちゃんもお母さんもそんな寂しそうな顔しないでよ。

 

 

傷つきすぎた

私が居なくても円滑に進む人間関係、私が居なくても雨は止む、私が居なくても世界は終わらない。私が居ても居なくても紛争も戦争も終わらない。影響力のある人間になりたかった。私はただそれだけだ

毎日毎日病院の美味しくないご飯を食べ 決められた時間に配布される薬を飲み眠り 決められた時間に起こされまた美味しくないご飯を食べさせられ牛乳を飲む。なんなんだ?この漠然とした気持ちは。

歩けるようになったら精神科の閉鎖病棟に入院する予定、ですが私が拒めば入院は回避できます、正直私は開放だろうが閉鎖だろうがどうでもいいから一旦入院はしたいと思ってる。1週間でも2週間でもいい。薬の調整だってしたいし どうせ学校復帰もまだまだかかるんなら入院してもいいじゃないか!でもまだ判子を押せないのは 母が「帰ってきてほしい」と言うからだ。ずるい、ずるい、せこい、自分はいてほしい時にいてくれなかったくせに 自分は私に何度も寂しい思いをさせたくせに、私にはそばにいることを強要してくるんだ。ずるい。そして、私が麻酔から目が覚めた時1番に思い浮かんだ人が母なのも悔しい。普通の家庭じゃないもんでね。

 

自殺未遂の回数なんて覚えてない、いちいち数える程馬鹿じゃない。でも搬送されて実際に入院をするなんて初めてだ。搬送されることはあっても処置をされて日帰りが何時ものコース。

 

飛び降りた時私は一体誰だったんですかね。二階から飛び降りて一瞬感じる風をどう感じたんだろう。

 

入院して1回目の手術をして1ヶ月、点滴を入れられてた部分に出来た内出血はもう完全に消えた、飛び降りた際に這いつくばって出来たであろう手のひらの内出血も消えた、擦りむいたひじも綺麗に治った。

 

私が飛び降りたという事実がゆっくりゆっくり消えようとしてる。怖い。私は常に可哀想な自分、底辺な自分で居ないと怖いんだ。人生にも周りにも落胆して絶望してないと、不安で仕方がない。それでもキラキラしてるみんなを見て見下して「馬鹿みたい」って思う そんな私自身が馬鹿で惨めだ。

 

昔からろくでもない大人しか周りにいなかった「相手を信じるということは相手に弱点を見せるものだ」と教えてくれたあの人は今何処で何をしてるんだろう。貴方のその言葉の呪いに今も私は取り憑かれてるよ。呪いが解けないんだ。そんな私を残して旅立った貴方を私は一生許せない そんな自分も許せない。子供にとっての絶対的権力者である大人は自分の影響力も考えず発言をするし行動をする。私は嫌われないように必死に媚びた、その結果、人の顔色ばかり伺う気遣いと自意識の塊へとなりました。そんな大人を許してはいけないはずだ。

 

脱毛症も再発しちゃった 死ねゴミ

 

 

未だに一人でも車椅子に乗れない なんて惨めで面白いんだろう。私の人生最高で最低だな。

 

 

7月にコードブルーの劇場版見に行こうねという約束は果たされるのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飛び降りた話

4.2午後辺りに私は家の窓からアスファルトへと飛び降りました。

死ねないことなんてわかってました、じゃあなんでリスカだけで踏みとどまれず飛び降りたのか?と聞かれたら私は「私を面倒くさがった彼へのあてつけだ」と答えます。

 

飛び降りる日の夜中に私はエチゾラムデパスジェネリックバージョン的な薬)をODしていました、そして手首を切るに切りまくりまた病院へ連れていかれ その事を彼氏に話をしたところ「こんなのが続くなら正直俺もきつい」と言われました。その言葉が許せなかったのです。

 

ですが少し冷静になり考えれば単純明快で分かりやすいのです、昼夜問わず自傷や自殺未遂の話を彼女から聞かされたらどんな人でも疲れると思います。

 

ですが私は冷静になんてなれませんでした、「この人は私を見捨てた残酷な人」という認識へと変わりました。境界性人格障害の悪いところです。

 

そして飛び降りたあてつけとは?となると、後悔させてやろうと思いました。お前の一言で、お前の態度で、唯一無二の私が傷つき苦しんでいるんだというのを見せつけることで罪悪感を感じさせようと思い飛び降りました。

 

 

不安になると不安が怒りに変わってしまいます。そしてそれを怒り任せで相手に押し付け 自分のしんどさを一方的に述べます。そして相手がよしよししてくれれば踏みとどまるし、突き放されればが当てつけの様に飛び降りたり首を吊ったりします。

 

痛かった、落ちた瞬間呻き声が出て 上手く呼吸ができず 体がバラバラになってるんじゃないかというほどの激痛だった。近所の人が駆けつけ救急車を呼び 来るまでの間ずっと私の体を撫でて「大丈夫だよ」と安心させようとしてくれた声と指の体温はきっと忘れられない。

 

ダメだ、このままじゃダメだ。このままじゃ絶対幸せにもなれない。いつまでも自分を傷つけないと安心を得られないのなんて嫌だ。もう嫌だ。

 

 

眩しい世界にもう居られない

バイトをクビになりました。

クビになった理由は、私は以前にしんどくなり何も言わずバイト先から途中で抜け出して帰宅しました、そしてここ最近休みがちで 水曜日に入っていたシフトを忘れて 思い出して電話したところ「シフト入ってたし もうこれで二回目だからクビだ」と言われました。

 

障害のせいにするつもりはありません、私が無能で怠け者だからいけなかったのです。ですがもうしんどすぎる。

 

母にはしばらくゆっくりしようと言われましたが働いてないと自分の価値を見出すことができません、無職で引きこもりで家にいて こんなんでいいのかなとなります。でも働いてもしんどくて休みがちになってしまう。

 

 

 

バイトがクビと分かった瞬間に泣きながら元彼に電話をかけ薬と酒を買い 薬を酒で流し込みリスカをしました。

 

眩しい世界にはもう居られないんだなと思いました。私にはもう無理だ。

親への懺悔

生まれて17年、生まれる瞬間はあんなに生まれたくて必死だったのに生まれた現在は死ぬことに必死です。

 

私が一番謝りたいのは産んでくれたお母さんです。

 

私の成長記録(一歳までの)を見つけ読んでみたところ 私の名前は未来と書くのですが「未来に向かってまっすぐ生きる子に育ってほしい」と書いてありました。

その言葉に反して育つかの様に 未来になんて希望抱けないし、なんなら今すぐ死にたいくらいには曲って育ってしまいました。

 

ここに至るまでたくさんのことがありましたが、お母さんは悪くありません。全ては捉える側だった私が悪いのです。

 

毎晩毎晩「お母さんは必死に働いてくれてるのに私はバイトを休んでしまう」という罪悪感に駆られて泣きじゃくってしまいます。

今にも絶えてしまいそうだなあと思いながらベッドの上でぼーっとしています。

 

私は私を責めることしか出来ないのです、唯一の母を責めるなんてもってのほかです。虐待も育児放棄もされたって捨てられたって責められません。私が悪いのです。一生これは変わらないと思うし変われません。

 

他人に迷惑をかけるよりお母さんに迷惑をかけることの方が当たり前に辛いし、申し訳ありません。

 

「あした病院だよ」「はい」と2000円を渡される瞬間も辛く 泣きながら謝りたくなります。

 

子供は20まで金を食うものだと言いますが、私は人並み以上にお金をかけさせているし 精神的にもダメージを与えてると思います。

 

 

 

 

 

 

ここまで沢山のお金をかけてもらったのに「生きてるだけでいい」と言ってくれた母や友人を背に死んでしまったら私は間違いなく阿鼻地獄でしょうね。三途の川で母を待つことも許されない。もう絶えてしまいそうだ。

 

唯一の償いとしたら知らないおじさんと寝てお金を稼ぎ貯金をし 首を吊る死体の隣に遺書と一緒にお金を包み死ぬことしか私にはもうできません。

 

ぶっちゃけ自殺や身辺整理をし遺書を書く体力ももう残っていません。消えてしまいたい。